踏みはずし

うつ病で社会のレールを踏みはずしたけど、楽しく生きていきます。

ルーベンス展とムンク展に行ってきたから比べて考えを書きます!

上野の美術館で開催していたルーベンスとムンクの、同時期に上野で開催されていた展覧会にそれぞれ行ってきました。

こんにちは。ふぉぱです。

気が向いた時、美術館や博物館に行きます。
芸術は好きで、学芸員の資格も持っています。
しかし、作者や作品について豊富な専門知識があるわけではありません。

 

ですが、この2人の歴史的な芸術家の作品を近い時期に観て、感じたこと、考えたことを書きたいと思ったので記事にしてみます。

結論から言いますと、どっちも凄いですが、ムンクのほうが気持ちよく楽しめました!

 

ルーベンスとムンクの概要

フルネーム・生年あたりを引用しておきます。

更に詳しくはウィキペディアなどを御覧ください(笑)。

ルーベンス

ピーテル・パウル・ルーベンス[1](蘭: Peter Paul Rubens オランダ語: [ˈrybə(n)s]、1577年6月28日 - 1640年5月30日)は、バロック期のフランドルの画家、外交官。祭壇画、肖像画、風景画、神話画や寓意画も含む歴史画など、様々なジャンルの絵画作品を残した

ピーテル・パウル・ルーベンス - Wikipediaより引用

 ムンク

 エドヴァルド・ムンク(Edvard Munch (ノルウェー語: [ˈɛdvɑʈ muŋk]), 1863年12月12日 - 1944年1月23日)は、19世紀 - 20世紀のノルウェー出身の画家。『叫び』の作者として世界的に有名で、ノルウェーでは国民的な画家である

エドヴァルド・ムンク - Wikipediaより引用

 付け加えることとしては、ルーベンスは日本ではアニメで有名な『フランダースの犬』でラストの場面でネロが観たがっていた絵の作者として知られています。ネロとその愛犬パトラッシュはその絵画の前で天に召されます。

ムンクはなんと言っても『叫び』の作者ですね。

両者とも芸術史上に燦然と輝く超有名芸術家です。
ですので、細かい知識はなくとも単純に「観ておくべき」作品だと思います。
実際、ぼくは観に行って良かったと感じています。

この両者がどちらが優れているということはありません。

ですがこの2人の作品を同時期に観て、図らずとも比較した中で感じたことを書きたいと思います。

ルーベンスを観てすごく疲れました

ルーベンスとゲーテ

ぼくにとってルーベンスは特別というか、ぜひ観たい芸術家です。
なぜならば、僕が大好きなドイツの大作家ゲーテが、ルーベンスのその天才性について明朗に語っていたからです。
それを読んで以来、観る機会があるとわかったらできる限り足を運んでいます。

ではまず、そのゲーテのルーベンスに関する話を紹介します。

ゲーテはその晩年に交流を持っていた若者エッカーマンに対して、ルーベンスの風景画を観ながら、その絵が自然光を描いているだけでなく、意図的に不自然な光を描くことにより人物を強調しているという指摘して、ルーベンスの天才性について語っています。

「芸術家が、」とゲーテは続けた、「忠実かつ敬虔に、自然をその隅々まで模倣しなければならないことは、もちろんだよ。動物を描くにしても、その骨格、脚や筋肉の状態を勝手気儘に変えて、本来の特徴をそこなうようなことは、ぜったいに許されないことだ。なぜなら、それは、とりもなおさず自然を破壊することだからだ。けれども、一段と高い域に達した芸術家は、一枚の絵をほんとうの絵にする方法を心得ているから、もっと自由に描くことができる。こうなれば、ルーベンスがこの風景画において二重の光を使っているように、虚構の世界へ足を踏み入れてもかまわないのだ。 

エッカーマン『ゲーテとの対話(下)』岩波文庫(1969年、山下肇訳)p.137

 

ぼくはこの話が大好きで、絵画を含め、ほとんどすべての創作活動に通じるのではないかと思っています。

レオナルド・ダ・ヴィンチも「遠近法と解剖学を学べ」と言っているし、ピカソも写実が抜群に巧いのは知られており、その上であのようなキュビズムなど「虚構の世界」を試みています。

他にも、手塚治虫もマンガでのデフォルメが凄いだけでなく、描く虫の絵は実物のようですよね。

日本には「守破離」という考え方がありますが、「守」つまり、まず守るもの、模範とするものは、この場合、自然とそのあり方だと思うのです。もちろんその自然には人間も含みます。

この基本ができているクリエイターの作品は、フィクションでも現実に迫った、または現実を超えるような力強さがあると感じます。

宮崎駿をはじめ、ジブリの作品にもそういったものがあると思います。

ちなみに、ゲーテは文筆を始め多彩な仕事を成し遂げていますが、すべての活動においてこうした本質的な基本を大事にしています。

そして、そのようなゲーテの考えや姿勢がふんだんに読み取ることができる、エッカーマンの『ゲーテとの対話』は、現代の様々な分野のできるだけ多くの人が読むべき本だとぼくは思っています。

ニーチェや水木しげるも座右の書としていたようです。

ゲーテとの対話(全3冊セット) (岩波文庫)

ゲーテとの対話(全3冊セット) (岩波文庫)

 

 

ルーベンス展、良かったけど疲れました。

さて、しかし!今回のルーベンス展では風景画はほとんどありませんでした(泣)。

行く前に展覧会情報を確認していなかった僕が悪いのですが、今回は「バロックの誕生」というコンセプト、つまり壮大なテーマで描かれた作品が中心に集められたものだったのです。

つまり、社会や宗教をテーマにした作品で、人物が多く描かれたものがほとんどでした。

これにぼくは食傷気味になり、疲れてしまったのです。

もちろん、素人のぼくが観てもその一つ一つの作品は圧倒的に優れていることはわかりますし、おそらく誰が観ても「すごい!美しい!」となるものばかりです。

描かれているのは現実の人間だけでなく、むしろ宗教や神話の一場面が多くありました。

ですが、そこにあった作品はとにかく「肉体、肉体、肉体」でした。

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キリストの埋葬(1602年)

それで、なにが僕を疲れさせたのかと言うと、上のキリストの絵を観てもわかるように、その描かれた肉体は見た目も筆致からも、とにかく肉感的で「充実」しているということです。

ヘラクレスなんてもうムキムキでしたよ(笑)

そして、そればかりで単純に飽きたということではなく、観ていくに連れて違和感がどんどん強くなっていったのです。

その「違和感」がなにかというと、ルーベンスが描いた肉体を見て「人間の体ってこんなキレイなものばかりか?」と感じたことです。そして描かれた肉体には、それが死体であっても、確固とした存在感があります。

もちろん、芸術ですから描くのはその対象も描き方もできるだけ「美しく理想的であるように」ということはあるでしょう。
それを踏まえても、描かれている肉体の「充実感」に、ぼくは「くどすぎる」と感じてしまったのです。

その「くどさ」がどこから来ているか考えてみました。

まず、時代による価値観もあると思います。

例えば、ヨーロッパで中世から近世に描かれている裸婦像は、現代のファッションモデルと比べれば「太っている」と感じるほど肉感的です。
当時はそれが良いとされていたということです。

ですが、それだけではないと思います。

ぼくが考えるのは当時のヨーロッパでの「人間とその肉体に対する信頼感」です。

「肉体」についてはいろいろな解釈があると思いますが、この「人の形をした実態」というのは特別なものであったと思います。

「受肉」とはキリスト教において特別な意味を持ちます。

そして「受肉」という言葉を出しましたが、当時の宗教観も影響しています。

キリスト教がどういったものかの宗教にかかわる議論はここでは別として、今回の展覧会を観て、宗教画では天使などの神的な存在はほとんど人間の形をして描かれています。

日本では神の使いだけでなく、神そのものが動物の姿をしているという文化も不思議な事ではないですが、例外もありますが当時のヨーロッパでは、人間というのはその他の動物と比べて上位の存在と考えられていたと思います。

それがルーベンス絵画に如実に出ていて違和感を感じたと考えるのです。

また上にも書きましたが、絵画を描く時「理想化される」ということも関係していると思います。

絵画に限らず、芸術は「理想を追い求める」という傾向にあると思います。

そうではないものもありますが、とにかく「良い(善い)もの」を表現しようとします。

それは作品制作において当たり前のことではありますが、そうして表現された理想的な人間像を観て、人々はいつの間にかそれが「人間の本質」であり、「自分たちにもそれが秘められている」と勘違いしてしまったのではないかと考えたのです。

つまり、宗教的に人間中心主義的な傾向があったのが、芸術によって表現された理想的な人間像を観ることによって、その”作られた”素晴らしさが自分を含む人間の本質と思うようになり、人間に対する信頼感に拍車をかけたのではないかと考えました。

ぼくは文化や文明に触れると、人間というのは優秀な生き物だと思いますが、上記の「人間に対する極端な信頼感」は行き過ぎだと感じます。

それはムンクの作品を観て、より強く感じました。

ムンクを観て心地よい疲れが残りました

ムンクが描く「不安」の正体

早速、ルーベンスと比べ、ぼくがどう考えたのかを書いていきます。

ムンクはルーベンスよりかなり後世の画家です。
時代が違うということは当然価値観やものの捉え方も大きく変わってきます。

そうなると、芸術家それぞれの考え方やトレンドもありますが、作風もだいぶ変わってきます。

ルーベンスであればその作品に込められた様々な意図や意味は別として、ひと目見て「美しい」と感じる方も多いと思います。
しかし、ムンクの『叫び』を見て、なんとも言えない魅力を感じることはあっても「美しい」とは感じないのではないでしょうか。

それどころか「不気味」「不安」という負の感情さえ湧いてくると思います。

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『叫び』

絵画の解釈について、ぼくは決めつけたり、断定的なことを言ったりすることを好みませんが、この『叫び』について「生や人間存在の不安を表現している」などと言われることがあります。それも間違いではないと思いますし、ぼく自身もこの作品からそういったものを感じます。

というのも、「人間とその肉体に対する信頼感」に支えられたルーベンスの作品とは異なり、ムンクの作品はこの『叫び』を含め、人間もそれを取り囲む世界も明確な形を持っては描かれていないものが多いのです。

ムンクは人間の生命や肉体は絶対的なものではなく、むしろ死をいつでも近くに感じ、儚く消えていってしまうものと考えていたと思います。

特に形ある肉体についてはそう考えていたと思います。

これは、子供の頃に家族を病気で亡くしたというムンクの個人的な体験に由来するとも言えますし、時代によるとも言えます。

ぼくが今回の展覧会で初めて知って驚いたとともに、すごく納得したことがあります。
ドイツの哲学者ニーチェをムンクが描いていたことです。

ムンクはこのニーチェの思想に共感していたそうです。

ニーチェの有名な言葉に「神は死んだ」というものがあります。

この言葉の意味や解釈は幅広く様々あると思いますが、今回の記事に絡めて僕なりの解釈を言わせてもらうと、「(キリスト教的)神はもはや人間の存在理由にお墨付きを与えることはない」ということ、つまりそれまで宗教教義に従い「人間はこうすべきだ」として行動してきたことや、その中で信じられてきた「人生の意味」などは無いということを明らかにしてしまったということです。

それまで、人間の生命や存在そのものは、確かな意味があり存在しているとされていました。それは「神に与えられた」ものであり、人間の支えとなっていました。その表れがルーベンスの描く「肉体の充実感」であり「信頼感」です。

しかしそれはニーチェの「神は死んだ」の宣言により終わりを告げ、「人間存在は不確かなもの」となり、さらには「世界そのものの目的」というのも虚構であることが暴かれたのです。

おそらくムンクは個人的な経験からもそのことに気づいていたと思います。

ですからムンクの描くものは人物にしてもその目や鼻、輪郭は曖昧であり、空や風景は歪んでいます。そしてそれを観る者にも不安を与えるのです。

ぼくはそのようなムンクの作品が好きです。

好きというだけでなく、ルーベンスを観ていたときのような違和感はなく、すごくしっくり来る、腑に落ちるといった感覚です。

つまり、ムンクの作品の方が人間や世界の「不確かさ」という本質を見抜き、正確に表現していると感じたのです。

だから、美術館で作品を観て回るというのはすごく疲れますが、ルーベンスの時のような違和感はなかったので、心地よい疲れでした。

それにムンクはそういった不安を感じさせるような作品だけでなく、明るく力強い作品も数多く描いています。

展覧会のコンセプトにもよりますが、今回のムンク展は、ムンクの人生の歩み全体にスポットを当て作品を展示していたので、ムンクがその時々にどういった経験をして、どういった考えを持つようになり、そしてどうのように作品を作っていったかということもしっかりと観ることができました。

そして、そのムンクの作品と人生というものは、正に「人間の姿そのもの」とぼくは感じたのです。

 

まとめ

ルーベンス展もムンク展もその展示と作品はどちらも素晴らしいものでした。

ですが、ぼくの今の性に合い、感銘を与えたのは、今回はムンクの方でした。

ルーベンスの作品も素晴らしく、感動しましたが、ムンクのほうが「世界や人間の真の姿を描き」、心に迫ってくるものがありました。

 

今回の記事は以上です。

大げさではなく、人生の中でそれらの作品を間近で目にする機会を与えてくれたそれぞれの展覧会の関係者の方々に感謝しています。

また今度、特別展があるときに限らず、美術館に行き、様々なことを感じ、考え、人生を豊かにできたらと思います。