踏みはずし

うつ病で社会のレールを踏みはずしたけど、楽しく生きていきます。

ルーベンスの『ローマの慈愛』が炎上しているようです

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先日、上野で開催されていたルーベンス展に展示されていた『ローマの慈愛』という作品が、フェミニスト的観点から「キモい」と言われていることが話題になっています。

ぼくも「キモい」と感じたけどそれは問題だ

先日ルーベンス展に行きました。

 

そして当該作品である『ローマの慈愛』は僕の印象に残りました。

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ルーベンス『ローマの慈愛』


印象に残った理由の1つに、現代人である僕が持つセクシャリティと大きく違うからというものがあることは否定できません。
つまりぼく自身も、ある種の「気持ち悪さ」を感じたと言えると思います。

現代の日本で、娘が父親に母乳をあたえることはないと思います。
ましてやおっぱいから直接ということは近親相姦さえ想起させてしまいます。

しかし当然、そう感じても当時と感性が異なることや、母乳の意味のなど、歴史・宗教、更には「人間の本質」などに思いを巡らせます。
そしてそれが普通だとぼくは思います。

ただ更にそこから、感性がちがうからというだけでなく、ぼくは「キモい」断定してしまうというのが問題だと感じました。

 

「内面化」のしすぎでヤバイ 『後ろ向き歩き禁止法』

ぼくは最近「内面化」を短絡的に、そして強固にしてしまう人が多いように感じています。
内面化とは、自己の外部の考えに影響されて、自己の内部に落とし込んで、理性的にだけでなく感情的にも、更には生理的にも自分のものとすることです。
言い換えれば、自分で自分を洗脳することです。

極端な例え話をします。
仮に”危ないから後ろ向きで歩くことは禁止”という「後ろ向き歩き禁止法」が法律として制定されたらどうでしょうか。

普通の人は「確かに危ないけど法律で禁止することか?」と考えるでしょう。

遵法意識が高い人でも「確かに危ないし、法律で決まったのだから従おう。でも後ろ向きで歩くこと自体が本質的に悪いことというわけではないだろう。」などと考えると思います。

中には「法律で決まったことなのだからこれは悪いことなんだな!」と思う人もいると思います。

しかし、どのケースにしろ最初は理性で、つまり、心情や感情、生理とは別の頭でそう理解すると思います。

しかし内面化が激しい人は、ここからが違います。

最初は頭で「法律だからそれを破るのはいけないこと」と考えているのが、次第に心情や感情などの気持ち、つまり内面でも「後ろ歩きは悪いこと」になってしまいます。

そうして内面化してしまうと、初めは「良くない」と考えていた人も、いつの間にか「“法律違反だから”」が抜け、後ろ向きで歩く人を実際に見たら、怒りや嫌悪感を抱くといったように感情的になっていまいます。
更には涙を流したり、吐き気すら催すようになり、生理的な面にも影響を受けてしまいます。
つまり、自分の外部的なもの(法律、制度、環境など)が、いつの間にかその人の内面的なもの、あたかも自発的なものとして形成されてしまうのです。

こういった人達にとっては、どういった背景で、なぜそういった法律が作られたのかという話は通じなくなってしまいます。

「後ろ向き歩き禁止法」という荒唐無稽な例はともかく、ぼくはそのような人が最近増えたと感じています。今までもその様の人はいたが、ネットの発達などで目につくようになっただけかもしれませんが。

そして、「キモい」というのは、正に感情的で生理的な言葉です

最近、あること(もの)に対して、それまでなにも気にしていなかったのに、どこかで知って以来、ある時から突然、怒り狂い、涙を流すといった人を様々なメディアで目にします。
僕はこの光景にこそ異様なものを感じます。

『ローマの慈愛』に対する非難も同じです。
つまり、ルーベンスの『ローマの慈愛』を「キモい」と感じたと表明し、その作品の背景など目にもくれず、強烈な非難を浴びせる人に対し、それこそぼくは「キモい」と感じます。

 

「内面化」が急激に進行する現代の病理

ですが、ただ「キモい」で終わらせてはぼくも同レベルです(笑)
ぼくはもっと深刻なものを感じています。
なぜ、こんなに視野が狭く狭量なものの捉え方をするのか思いますし、それを堂々と世間に表明できてしまうのかと思います。
そして、そのような人が決して少数ではないと見える現状に、日本の教育制度や社会、そしてその下にいる人間の劣化に危機感を覚えました。
ですので、その原因を少し考えてみたところ、以下の3つが頭にのぼりました。


1.文脈を読む力の欠如
2.決断主義的な価値観の選択
3.その価値観のSNSでの正当化(権威化)

 

1の「文脈を読む力」は教員免許取得を目指す身としては教育でもっと頑張ってほしいところです。
それで解決できるとも思えませんが、ぼく個人としては、まだ教育で改善できる余地はあるんじゃないかと実感しています。
これを言い換えれば、現在の教育制度も現場の教員もダメだということなんですが。

2と3はネット的な現象だと思います。

もはや錆びついた話かもしれませんが、ニーチェの「神は死んだ」以来、人はそれまで持っていた自身(の生きる意味)に対する支えを失います。
信じるべき価値観が崩壊したとも言えます。
それ以来、その支えや価値観は神や宗教から与えられるものではなく、自分で見つけ、選び取るものになりました。
時代は流れ、たとえかつてのように絶対的なものでなく、相対化されてしまった宗教であっても様々なものから自分が主体的に選び取れるようになりました。
また、宗教以外のもの、例えば文化やお金を自分の支えとなる価値とすることもできるようになりました。
そしてネットが普及し、その選択肢は無限とも言えるほどに増えます。

しかしそこで問題が起きます。
それが2の「決断主義的な価値観の選択」です。
それまでは、増えたと言ってもいくつかの中からその比較の中で、自分が良いと思ったものを選べました。
しかしネット発達により選択肢があまりにも増えすぎたせいで、「どれが良いか」という判断が困難になります。
どれも良さそうにも、そうでなさそうにも見えてしまいます。
そして比較ばかりしていたら、あまりにも量が多すぎ疲れ切ってしまいます。
それでも何か、人は自分の支えとなるものを選ばなければなりません。
ですからその時、比較なんかやめて、とりあえず自分が正しい信じると思えるものを選び取るという決断をしなければならないと思うのです。
しかしこうすると、信じられるものを選ぶのではなく、選び取ったものを信じるしかなくなります。
別の言い方をすれば、主体的な判断や選択をしなくなるということです。

片手で数えられるくらいの数の価値観や考え方であったら、それを比較してその中から選び取り、時には相反するがどちらも正しく見えるものの間で悩むのも人間らしいと思います。
しかし、比較対象があまりにも多く、その中で悩むとなると心が病んでしまいます。
悩むことが人間らしいとは言ってられなくなります。
そうした中で選んだ1つの価値観は、それがある意味で正しくとも、多面的な世界のたった1面の正しさを表しているに過ぎません。
こうして、視野の狭い狭量な考えが人の中に根付いてしまうのです。

ただそこでは終わりません。人は3の「その価値観のSNSでの正当化(権威化)」をしてしまいます。
「それが正しい、正しくないにかかわらず、価値観を選び取らなければならない」と言いましたが、やはり人は自分が選んで(一応でも)信じているものが正しくあってほしいのです

そこですることはその価値観の補強です。

もしネットがなければ、古くから続く歴史や文化の中に、自分の価値観の正当性を求めるたと思います。
人でなくても、国の正当性が神話や歴史によって支えられていることを想像していただければと思います。

ですが現在は、その価値観や考え方の正しさ、正当性を縦の深さではなく、横のつながりに求めがちです。つまりSNSです。

もちろんかつての、そして現在の宗教も横のつながりによってその正当性が担保されているということはあります。
ですから信者の多さも重要です。
それでもその人のつながりや多さは、縦の深さとともに作られていきます。
また、どうしても目についてしまう他の価値観との比較の中で、他の価値観への寛容さも育まれることもあります。(宗教において必ずしもそうではない歴史的事実もありますが。)
ですがSNSを利用すれば、他の価値観に目が行く前に、同じ価値観を持つ人や集団を探し出せてしまいます。
そして批判があったとしても、ブロックすることができてしまいます。
他の考えをブロックすることは精神衛生性的には良いことですが、自己批判の精神や他者に対する寛容性を養うことができなくなってしまいます。
そしてそのまま、自分と自分が選び取った価値観が絶対に正しいと誤った認識を持ったままになり、しかもそれをそのSNSを使って誰もが全世界に発信してしまうのです。
さらに、批判をブロックしたままのSNSでは賛同者の声ばかりが自分のもとに届き、1面的な正しさしかない価値観、場合によっては誤った価値観を絶対のものと補強強化してしまう、つまりその人の中で「正当化と権威化」がされてしまうということです。

上の話を引き継げば「一応信じている」の「一応」を外し、内面化してしまうと言えます。

[まとめ] 解決は難しそう

このことに対する解決方法はぼくには思い浮かびません。
残念ながら、現在の社会状況や技術環境、そして人間というのはこういうものだと思うしかありません。
せめて、このようなことを認識することが問題の緩和への第一歩になればと思う程度です。