踏みはずし

うつ病で社会のレールを踏みはずしたけど、楽しく生きていきます。

想像力や共感力は低いほうがいい場合もある

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私は知らないものを思い描く想像力や他人の想いを自分でも感じる共感力は、人間の素晴らしい能力だと思っています。

しかし、それが時に物事の運びを難しくしてしまうことがあると感じています。

 以前書いたこの記事とほとんど反対のタイトルです。

ですが内容的にはこの続きというか、共通していると思います。

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私は想像力や共感力の高い人が好きである

私は、自分ではない他人が何を考え何を思っているか、いつでもしっかりと想像すべきだと考えています。

そして、相手と想いを共にし、助けたり寄り添ったりできる人間は優しい人であり、そういう人ができるだけ多くいてほしいし、自分もそうなりたいと思っています。

つまり、想像力や共感力が高い人が好きなのです。

他者に同情できる人とも言えるし、思い遣りのある人でもいいでしょう。

(「思いを遣わす」というのは本当に美しい言葉だと思います。)

ニュースなどで様々な嫌な事件を見るたびに、そんな優しい人が世の中にもっとたくさんいたならば、もっと良い社会になるのではないかと考えてしまいます。

また、想像力や共感を向ける対象は人間だけではありません。

動物や植物などの自然や、芸術作品や建築物などのモノに向けられてもいいと思うし、それができる人は心の豊かな人です。

そんな素晴らしい人に私はなりたいと思っています。

しかし想像は間違い、共感は視野を狭くすることがある

私には子どもがいませんが、事故などで子どもや若い人が亡くなったというニュースを見ると、胸が締め付けられる思いがします。

もし自分の子どもだったらと思うと、本当に涙が流れます。

「他人の不幸に涙する」ということは多くの人にとって、当たり前のことだと思います。

現実の話ではなく、映画やドラマの物語でも泣く人は多いでしょう。

他人の気持ちや自分には直接関係のないことに対して想像を膨らませ共感してしまうというのは、人が持つ素晴らしい能力です。

ですが、対象が複雑だとその想像は間違い、共感も視野を狭めてしまうことがあります。

想像力は間違える

 

例えば、ある事件の被害者だと思っていた人間がそもそも加害者とされる人物に最初に危害を加えていたということもよくあります。

私たち人間は「ある人が被害を受けた」とだけ聞くと、その人が可哀想だと想像してしまいますが、出来事の全体を知ると、被害者と加害者の立場が逆転してしまうことも珍しいことではありません。

想像するということは、自分の知らないことに対して想いを巡らすことですから、間違ってしまうこともあるのです。

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これはメディアの問題でもあります。

しかし、メディアと言っても「テレビが、ネットが」というだけの小さな話ではありません。

もっと根本的な話として、私たち人間は、その人1人が実際に見聞きできる物事など本当に限られているということです。

メディア(media)とは、もともと「中間」とか「介在」という意味です。

私たちは直接見たもの以外は、メディアによって切り取られた情報で物事を判断しているのです。

私たちはテレビや新聞、ネットや他人からの事件や出来事の伝聞で得たほんの一部の情報からあれこれ考えます。

出来事だけではなく、他人の心の中もそうです。

相手の言葉や表情などの身振り手振りから、その人が何を考え思っているか想像します。

そして、その想像が的確に対象を捉えることもありますが、間違うこともよくあるのです。

事件の全容などほとんどわからないまま、他人の心なんて覗くことができないまま、勝手に「こうかもしれない」と想像することしかできないのです。

物事の断片から様々なことを想像できるのは素晴らしいことですが、それがいつでも正しいということではない、ということは頭に入れておくべきだと思います。

共感は視野を狭くする

共感力の高い人は心優しい人だと思います。

もし私が困っている時に親身になって私のことを考えて手助けしてくれ、何もできなくとも、私の横で一緒に困り泣いてくれる友人がいたら、それ以上幸せなことはありません。

私も他の誰かに寄り添うことができる人間でありたいと思います。

ですがやはり、共感だけではどうにもならないことがあります。

もし目の前に困っている人がいたら、その側にいて思いを分かち合うことも良いことですが、客観的に、そして冷静に判断して困難の切り抜けることも重要です。

共感すること、別の言い方をすれば想いを同じにすることができる人が近くにいると、心が安らぎますし、それは貴重なことです。

でも共感するだけ、またあまりに共感しすぎてしまうと、一緒に右往左往するだけということにもなりかねません。

冷静な判断ができる人が必要です。

ある問題が起きた時、その問題に困っている人に共感する姿勢も必要ですが、それだけではなく、少し距離をおいた客観的な目線で、ある意味他人事のようにドライな態度で大局を見極め、問題解決のための判断・行動を取るような人も必要です。

極端な例えかもしれませんが、お医者さんが患者やその家族に共感ばかり示していて、診察室や手術室で泣きじゃくっていては話にならないということです。

何かの困難に対処するためには、目の前のものに気を取られてばかりいるのではなく、距離をおいて、外側から離れて見たからこそ、その解決への糸口が見つかるということがよくあります。

また、犯罪などで被害者に寄り添い、その立場から意見や考えを言うのも大事なことですが、その事件の解決、そして今後そのような犯罪が起きない社会を作っていくためには、離れた場所から法律や制度などのもっと大きな構造をとらえて思考していくことも重要なことです。

どんな人間が理想か

みんな不器用

ではどんな人が理想的な人なのでしょうか。

それは両方をバランスよく持ち合わせた人だと思います。

お医者さんの例で言うと、患者の痛みや苦しみを理解し優しい言葉をかけてくれて、自分のことのように熱意を持って治療に取り組みながらも落ち着きが感じられ、その判断や治療行為は客観的かつ冷静、そして正確という感じでしょう。

お医者さんならば、膨大な知識やそれを基とした思考といった頭の良さと、手術など処置の際の手先の器用さなども前提となります。

しかし、そんな有能で理想的な人がいるのでしょうか。

おかしな言い方ですが、私は「いると言えばいるし、いないと言えばいない」と思います。

おそらく、ほとんどの人間が他者を想像し共感できる心と客観的に物事を判断できる冷静な頭を持っていると思います。

しかし私の周囲を見ると、ある人は極端に想像力や共感力が強いと思えば、口にする言葉は感情論が多くで冷静な思考や判断が苦手だということがあります。

その逆に、冷静だけど、相手にズケズケと正しくとも反論に近いような意見ばかり言いうような、いわゆる頭でっかちな人もいます。

多くの場合それほど極端に偏っていなくとも、完璧なバランスという人はなかなかいません。

また、1人の人においても、ある分野では想像力と共感力と共に客観的で冷静な頭脳を抜群に発揮しながらも、別な分野になるとそれがうまく行かなくなってしまう人がいます。

再びお医者さんを例にしますと、病院では完璧なのに恋愛となるとどうにもうまくいかないみたいな人です。

想像力だけがズバ抜けたアーティストみたいな人を考えてみても良いかもしれません。

当たり前の話ですが、人それぞれ得意なこと不得意なことがあり、またある能力を持っていてもそれを発揮できる場とできない場があるのです。

つまりみんな不器用なのです。

ではどうすればよいか?

答えとして、私はその人ができることをすればいいと思います。

困ってる人がいたら、その人に共感し気持ちで寄り添う人もいれば、良い意味で他人事と考え、状況に対して冷静に対処することで、困ってる人の助けとなればいいと思います。

またまたお医者さんを例に出せば、お医者さんは冷静に淡々と病気に対処し、精神的なケアは看護師さんやカウンセラーなどがすればいいと思います。

それぞれの人が自分の持っている能力を発揮すれば良いのです。

ただ、その際は助ける人はチームで行うということを意識するのが良いと思います。

それは仲良く抜群の連携をとってということではありません。

適材適所で自分のできることを他者のためにするということです。

ここでのチームは社会と言い代えていいと思います。

馴れ合うのではなく、それぞれの人が社会を構成する一人一人と社会全体を尊重するということです。

人間も社会も驚くほど複雑です。

1人の人間が社会全体を把握し対処できるということはありえないでしょう。

だから、ある人が自分の立場でその時にできることをすれば良いのです。

ただこれは、「ありのまま良い」ということではありません。

想像力や共感力がないなと思う人は、必死に想像・共感とはどういうことか考えてみるべきです。

反対に客観的で冷静な考えが苦手だなと思う人も、一生懸命勉強してみたら良いと思います。

その結果、できるようになるかもしれません。

しかし、少しは良くなるかもしれませんが、結局できる人と比べたら全然できないということにもなるでしょう。

それでいいと思います。

私は「その人ができることをすればいい」と言いましたが、自分が何ができて何ができないかを知ることも大切だと思います。

あることをできる人もいれば、できない人もいるということをお互いに理解し合い、自分ができることで他者を支えていけばいいのです。

それが「その人ができることをすればいい」ということで「一人一人と社会全体を尊重するということ」だと思います。

複雑であることを理解し受け入れる

なぜこんなありきたりなことを言うかと言うと、私は最近、世の中ではこの想像力や共感力といったものが必要以上に、しかも偏って重視されていると感じています。

例えば、なにか事件が起こると「被害者の気持ちを考えろ!」という意見が世の中を覆い、その事件が起こった背景や犯人の動機に共感や同情することはもちろん、少し斟酌することすら許されません。

もししようものなら、あっという間に炎上してしまいます。

これでは社会全体を客観的に捉え、冷静に分析することでその後の類似犯を予防し、法律を整備しようというような議論ができなくなってしまいます。

これは1種のポピュリズムと言えると思います。

異なる意見を締め出そうとしているという点では全体主義とも言えるかもしれません。

しかも素朴な優しさや善意からきているだけに厄介です。

それ自体は悪いことではありませんが、あまりに単純なのです。

そして単純では複雑で幅広い社会や人間という存在を見誤ります。

現実の人間や社会は複雑過ぎて、個人の想像力は及ばず、共感するにしてもあっちにもこっちにもということができないものがほとんどです。

だから本来良いもののはずの想像力が行き場をなくし、その結果、身近でわかりやすいものだけにどんどん想像を膨らませ、共感するということが起こっていると思うのです。

だから私は、もし想像や共感が及ばない複雑な事態に直面したら、想像力は一旦抑えて、自分の目で確かめるという態度を大事にし、共感し寄り添うのではなく、一歩離れた第三者的な客観的な視点を持つことも大切だと考えるのです。

「想像する」ということはある意味で、相手への決めつけが含まれてしまうことが多いのです。

だから極端に想像力や共感力を持ち上げることは、他者への押しつけ、決めつけ、レッテル貼りを推奨していくことになってしまいます。

複雑なものに対しては余計な想像や共感はしないで、「この想像も共感もできない複雑なものはなんだろう」と客観的に冷静に考えるべきなのです。

つまり、「複雑であることを理解し受け入れる」ということは「自分の想像力が及ばないことを理解し、自分とは異なる他者の考えがあることを理解し尊重する」ということです。

自分の想像や思考を超えた人言動をするを変人と決めつけるのではなく、その人がなぜそんなことをするのかと考えてみるべきだと思います。

もしかしたらその言動は、自分が納得できるかどうかはともかく、一理あるものかもしれません。

凶悪な事件が起こった時、その犯人の心情に共感してしまうかもしれません。

復讐劇などを思い浮かべていただければと思います。

また、その犯人の心理に納得はできなくとも、その複雑さは人間的なもので、自分も抱え込まねばならなかったものかもしれないことは多々あると思うのです。

メディアを通して知った起こった出来事の断片から想像し共感するだけでなく、少しそれを抑えて、離れた距離からある意味他人事として客観的に見ることによって、社会や人間という複雑で幅広い存在の構造や全体像を見ることができるのです。

なぜ私がそれをすべきかというと、個人の人間の命や感情もかけがえのない大切なものですが、民主主義国家において主権者である私たち国民は社会全体の構造にも権利と責任を持っており、社会を良い方へ発展させていくためには、個人的な感覚や感情だけでなく、それと共に客観的・総体的な視点や思考を持つことも必要だと考えているからです。

そして、そのような全体を見渡す視点や思考を持とうと思っても、おそらくすべてを理解・把握できる人はいません。

その場合、わからない部分を想像力で補完しようとするのではなく、自分とは違う、自分にはわからない理解できないものとして一旦引き受けたあと理解しようとし、その結果自分に理解できるか、できなくても、それはそういうものとして受け入れるか、その存在を認めればいいと思います。

自分の想像や共感の及ばないこともあるということをしっかりと知るべきなのです。

この文を書いた時期

この文章を初めて公開するのは2019年5月29日です。

しかし、書き始めたのは2019年5月27日で、殆どの部分をこの日に書きました。

初めから私は具体的な出来事や作品は頭にありましたがそれを例として出す気もなく、一般的なことについて考え書こうとしており、また内容としても、初めはコミュニケーションについて思うところを書いていました。

しかし、その間の2019年5月28日に神奈川県川崎市で小さい子どもを含む2人が亡くなり、さらに多くの方も怪我などが被害に遭う、痛ましい事件が起きました。

なにか事件が起こると「被害者の気持ちを考えろ!」という意見が世の中を覆い、その事件が起こった背景や犯人の動機に共感や同情することはもちろん、少し斟酌することすら許されません。

という記述しましたが「なにか事件が起こると『被害者の気持ちを考えろ!』という意見が世の中を覆い」といったことは27日に書きましたが、それ以下の内容は事件を受けて加えました。

それでもほとんど最初の構想と変わっていません。

 

私は被害に合われた方やそのご家族のこと、自分の家族がもしこのような事件にあったらと想像すると、胸が締め付けられる思いがします。

そして、私の知り合いやネット上の様々な人の反応をみていると、想いを共にしている人がたくさんいます。

本当に嘆き悲しんでいる優しい人がたくさんいるということはせめてもの救いです。

ですが、やはり私も他人です。

その悲しみは関係者の方々に比べられるものではありません。

想像し共感していると言うことすらおこがましいと思います。

どこまで行っても他人なのです。

しかし、同じ社会を構成している一員でもあります。

そして、私はこの文の中で「他人だからこそできることがある」といったことを書いてきました。

悲しみを抱える人にの心を想像し共感して寄り添うことも貴重なことですが、同時に冷静に社会全体を眺めることで、そこに巣食う問題をなくしていくような議論や行動をすることも、被害に遭われた方々のために、そして今後同じような悲惨な事件が起きないよう、同じ社会を構成する他人ができることだと思っています。

事件を忘れず、私が実行できることはそういったことだと考えています。

以上となります。